降誕祭のノベナ

とまにちわ!


修道院では降誕祭に向けて、ノベナの信心業が続いています。

そんな降誕祭のノベナはいつもと違う展開!


今年は聖体顕示の後に、まずは師イエスに対する祈りを唱えます。

そして、教父・教会博士たちの著作の朗読に耳を傾けます。

その後、黙想して、教会の祈りを唱え、聖体賛美式という流れ。

例年ならラテン語で歌うノベナのが、今年はラテン語なし!!

毎年のように、ラテン語はちんぷんかんぷんだから歌えない…。

などと言っていたので、そんな嘆きが聞き入れられたのかも?

もう恥ずかしい。

そういうことで、降誕祭のノベナのメインは「教父・教会博士たちの著作」の朗読。

つまり、現行の『教会の祈り』では省略されている「読書」の第2朗読を、みんなで読むということに!

当たり前だけど、日本語なのですごく分かりやすいです。

だけど、その内容は深くてアツい。

正直なかなかハードで、脳にバグが出てきてしまう…。

だけども、せっかくなので、今日(18日)の朗読を紹介しておきますね。

いい感じに締まる気がします。


ディオグネトスへの手紙 神は子を通してご自分の愛を明らかにされた

 人間のうち誰一人として、神を見た人も、また神を知った人もおらず、神だけがご自身を示してくださったのです。信仰を通して神はご自身を示してくださいました。信仰だけが神を見ることを得させるからです。万物の主であり、作者である神、万物を造り、一つひとつのものを秩序正しく配置された神は、人類を愛する方であるばかりではなく、忍耐強い方でもありました。もっともこの神は、かつてそうであり、今もそうであり、これからもそうであり、つまり慈しみ深く善良な方であり、またお怒りにならない真実な方であって、ただひとり良い方であります。この神は言い尽くすことのできない偉大な意図を抱き、それを御子だけにお伝えになりました。

 英知に満ちたこの計画を、神は秘密として大事に保っておられ、その間は私たちのことをなおざりにして、配慮してくださらないかのように思われておりました。しかしながら、最初から準備されたことを、愛する御子を通して明らかにし、啓示されたとき、何もかも一度に私たちに与えてくださいました。すなわちそれは、私たちをご自分の恩恵にあずからせてくださることであり、私たちのうちのだれもが、決して期待しなかったほどのことを見、かつ理解することです。

 ですから、神はご自分で一切の救いの計画を御子と共にお決めになっていましたが、今の時代に至るまで、私達が気ままに無秩序な衝動にもて遊ばれるのを耐え忍んで下さいました。私たちは、快楽と欲情のとりこになっていたのです。これは、私たちの罪を喜んでおられたのではなく、我慢しておられたのです。このよこしまな時代を証人されたからではなく、この正しい時代を作りだして、私たちが自分たちの業だけでは命を得るのにふさわしくないことを納得して、今の時代に、神のあわれみによって、いのちにふさわしい者となるためでした。そしてまた、私たち自身では神の国に入る力のないことを明らかにされた私たちが、神の力によってこそ、その可能性のある者とされるためでした。


 私たちの不義が満たされ、その報いとしてこらしめと死が降りかかってくることが完全に明らかになったとき、あわれみと力を表そうと、前もって神がお定めになっていた時が到来しました。ああ、人類に対する神の慈しみとその愛の豊かさよ。神は私たちを憎んだり、見捨てたり、復讐されたりはなさいませんでした。むしろ長い間、忍耐強く忍び、我慢してくださいました。私たちを憐れんで、私たちの罪をご自分で負い、その御子を私たちの贖(あがな)いとしてお渡しになりました。聖なる方を不法な者たちのために、罪のない方を悪人たちのために、正しい人を不正な人のために、朽ちることのない方を死ぬべき者たちのために購いとしてお渡しになったのです。その方の正しさ以外に、私たちの罪を覆い隠すことのできるものがほかにあったでしょうか。神の御ひとり子以外に、罪深く不敬虔な私たちを正しい者とすることのできる方が他にいたでしょうか。




 ああ、甘美な交換。ああ、はかりがたいみ業。ああ、すべての期待を超える賜物よ。多くの不法が正しい一人の人のうちに隠され、一人の人の正しさが多くの不法の者を義としたのです。


『教会の祈り 新しい聖務日課』も一緒に使うといいと思います。

もしかすると、毎日の時間を聖なるものに変えられるかも!

絶えることのない祈りの時間を感じて、この一年を締めることにしよう!!

安全な年末をお過ごしくださいね。

TomaP 修道院の生活はこんな感じでどうでしょう

カトリックの聖パウロ修道会の修道士によるエッセイ。修道院の小窓から見えるさまざまな話題や情報を綴ります。