藤田、フジタ、洗礼名はレオナール

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とまにちわ!

東京国立近代美術館のMOMATコレクションで観た、藤田嗣治という人がなんだか気になるのです。
おまけに四谷修道院近くの迎賓館赤坂離宮では、8月11日から、藤田嗣治の天井画6点が初公開されるんだとか!
こうなると、俄然、藤田嗣治に興味が湧いてくるのです。

1886年(明治19)、現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれたフジタは、父の上司だった森鷗外の勧めもあり東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、1913年、26歳の時にフランスにわたります。(出典:ポーラ美術館)

パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようと思いつきます。手製のなめらかなカンヴァスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き、繊細な陰影を施した裸婦像は、「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されました。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、フジタの作品はパリで大人気となりました。(出典:ポーラ美術館)

1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とします。日中戦争がはじまると、祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れます。(出典:ポーラ美術館)

再びパリに暮らし始め、日本には戻らないと決めたフジタは、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳の時にランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられます。最晩年には、ランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、完成から2年後に没しました。(出典:ポーラ美術館)


パリで藤田嗣治は、「私が日本を捨てたのではない。日本が私を捨てたのだ。」と語っていたそう。
彼の人生は、なかなか大変!
というか、切ない感じ・・・。
そんな人生を歩んで来たからこそ、たどり着いたのが、キリスト教だったのかも。


ちなみに、MOMATコレクションは、藤田嗣治だけでなく、岸田劉生とかルソーとかまで見られて超お得なんです。
まめに展示替えも行われるので、訪れるたびに新たな発見もあり!


せっかくだから、迎賓館赤坂離宮の藤田嗣治の天井画も観たいなあ。

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